<7日間ブックカバーチャレンジ>
どんどん奥のほうまで行きます。
やはりこの本は挙げないとと感じます。
と思って、本棚を探したのですがあるはずなのにない。他の文庫本たちがいるところにいないのは、いつか抜き出したからなのか? その記憶もありませんで、インターネットに載っているかと思いましたが、かろうじて「無常という事」を音読したものがあって、何とか再会を果たしたのですが、やはりもう一度読みたくて、図書館も閉まっているし、やはりこれからの人生にも必要と思い、購入することにしました。
インターネットで注文すると1週間くらいかかりそう、電子書籍という気はせず、近所の本屋さんに行ってみました。
本屋さんで本を探すこと自体が、すごく久しぶりでした。
最寄り駅の本屋さんには著者名のあいうえお順で並ぶ新潮文庫の棚で、小林秀雄の他の本は数冊ありましたが、この本はありませんでした。それで隣の駅のBOOK OFFに入って文庫本のあいうえお順に並んだ「日本人作家」というところを見ましたが、全然ありません。まさかとは思いましたが、「100円」の棚を見ましたが、やはりありません。まさかまさかとは思いましたが、「ハウツー」という棚を見たら、この本は無かったもののなんとそこに小林秀雄は分類されていました。小林秀雄の著作が「ハウツー」に分類されているとは、アラブより遠い国に来た気分になりました。そして、この隣の駅の周辺に本屋さんはあるのかないのかも知りませんでしたが、少し探してみようかと思い、いつも行かない方向に少し歩いてみたら、ありがたいことに昔ながらの「駅前の本屋さん」がありました。少しだけ個性的な雰囲気のその小さな本屋さんでは、文庫本が出版社ごちゃまぜ(あ、岩波文庫はどこの本屋でも別格のようでここでも別に棚が設けてありました)で、「日本文学」「外国文学」とあり、「30.女性の作家が多い」とかいう棚の隣に、「31.硬い本、いわゆる人文の棚」というプラカードがあり、そこに、ありました!! こういうのは人文っていうんだ。
久しぶりに懐かしい表紙のこの本を手に取って、一番最初の「モオツァルト」に目を通すと、『読みやすい!』。すーっと、こんなに読みやすかったか? たぶん長い月日を経て、印刷がよくなって、活字が読みやすく、レイアウトも空間が多いものになったのではないかと思います。
楽譜でも同じ曲でも、ペータース版とベーレンライター版では曲のイメージまで変わってしまうように感じますが、やはり視覚的な印象ってすごいです。
この本屋さんはよくよく見ると小さいながら、なかなか趣味がいい感じで、入り口のレジに座っているおじさんも感じがよく、在庫の問い合わせの電話にもコンピュータも見ずに「ああ、ありますよ。」と答えているのを聞いて素晴らしいと思いました。
その隣の駅から少し行ったところには雑木林の小さい公園があるのを知っていたので、帰りはそちらを通って、お天気もよいので、もしベンチが空いていたらお天気もよいしそこで少し読んで帰ろうと思いました。
幸い座れるベンチがあって、そこに腰を下ろして、4時だったけど4時半くらいまではいいかなと思って、緑の中でさっき本屋さんで読み始めた「モオツァルト」の続きを読み始めました。いろいろな鳥の声が聞こえてくる。懐かしい朽ちた葉の匂いというか、しっとりとした土の匂いが、ほのかにする。ちょうどいいくらいの人数の人たちが、通りすぎたり、近くのベンチに座っていました。この文庫の読みやすいレイアウトのせいか、静かな澄んだ林の空気のせいか、没頭していたようで、気が付いたら4時半を回っていた。それでもあまり心地よいので、もう少し読み続けました。
コロナでなければこんな豊かな時間もなかった、思いがけず贅沢な体験ができたことにまず感謝したいです。
さて。
私は中学か高校のころに小林秀雄に触れて、すごく強い影響を受けたように思います。「ように思います」というのは、その著述の内容をしっかり理解して影響を受けたというより、とにかく刺激されて圧倒的な支配下に入ってしまった、飲み込まれてしまったという感じです。
小林秀雄の何にそんなに魅了されたのか。
《思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。...》(「無常という事」から)
《美は人を沈黙させるとはよく言われる事だが、この事を徹底して考えている人は、意外に少ないものである。優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これに対して学問上の言語も、実生活上の言葉も為す処を知らず、僕等は止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑えがたく、而(しか)も、口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。そういう沈黙を作り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪えるには作品に対する愛情を必要とする。美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、妙な言い方をするようだが、普通一般に考えているよりも実ははるかに美しくもなく愉快でもないものである。》(「モオツァルト」から)
美しいものを語るとき、小林秀雄の文章は凛とした響きを放ち、何とも言えない高揚を感じてしまうのだ。
先生のように、「小林秀雄の言うことは絶対」みたいな、良いと言えばよいのだろう、悪いと言えば悪いのだろうというそういう依存の仕方になっていた、完全に支配されていたように思います。
そのあと、ポストモダンって言うか、そういう人たち(浅田彰とか、柄谷行人とか、蓮実重彦とか、中沢新一とか)が出てきて、たぶん柄谷行人か誰かが、小林秀雄はこういう人なのだというようなことを書いているのを読んで、ふとその呪縛が溶けたというか、楽になったというか、「絶対」ではなくなった記憶があります。
それからは、距離を置けるようになって考えてみると、例えば音楽に対して、私は実際に音楽を知る前に、小林秀雄の言葉によるものの影響を強く受け過ぎたように感じていました。
何のことを言っているかというと、例えば、モオツァルトの「疾走するかなしみ」、「空の青のかなし」、そのイメージのほうが、実際にモーツァルトを聴くなり、弾くなりして、その音楽を通して、自分自身で知るより先に来てしまっていたということです。
今は、もちろんそう言ったイメージ・感覚もあるけれど、そういう観念的なものよりもまず、和声とか構成とか、何ていうか音楽はそういうパーツから出来上がっている、スタイルからできているという、そういう理解の仕方に変わっている。
それで、私の読んだ「モオツァルト」は、実際のところどういう文章だったのか、今一度読み返してみたいと思ったのだ。
公園で半分くらい、そして昨日残りを読んだ。
読んでわかったのは、音楽というものを感覚的なイメージでとらえていたのは、小林秀雄ではなく、私がもともとそういう傾向が強かったのだということ。「モオツァルト」の中で、小林秀雄が語る感覚的なイメージの部分にしか私自身が反応・共鳴していなかっただけなのだということだった。
今、私がモーツァルトについて思うのは、その転調の巧みさというか、鮮やかさというかそういう点だけれども、彼はそのことについて何度も言及している、そして、旋律の作り方の特徴とか、つまりパーツについてもちゃんと言っている。その結果現れてくるのが「かなしみ」だ。
ベートーヴェンについても、ワグナーについても、シューマンについても、ゲーテ、スタンダール、ニーチェについても書いている。私にはその記憶もほとんどないので、私自身が語られている対象をほとんど知らなかったから、頭に入らず、読み飛ばしていたのだろう。(ま、今も別に知っているとは言い難いけど、その時よりは言われていることがわかる)
《思い出しているのではない。モオツァルトの音楽を思い出すという様な事は出来ない。それは、いつも生れた許(ばか)りの姿で現れ、その時々の僕の思想や感情には全く無頓着に、何というか、絶対的な新鮮性とでも言うべきもので、僕を動かす。人間は彼の優しさに馴れ合う事は出来ない。彼は切れ味のいい鋼鉄の様に撓(しな)やかだ。》
そういえば、私にとっても、モーツァルトの思い出というのがない。
というか、よく昔聞いた曲を聴くと「なつかしい」と感じることがある。それは、その時流行った歌謡曲だったり、またクラシックでもたとえばチャイコフスキーのピアノコンチェルトとか毎晩寝る前に聴いていた時があるので、やはり私はあの冒頭を聴くと懐かしい匂いを感じる。
ただ単に私はモーツァルトとの付き合いが薄いのだろうか。でも確かにモーツァルトは常に現在であるというか、そういうノスタルジーをまとわないところがあるように思う。それはモーツァルトの音楽が徹底的に人の人生に対して無責任(←これはあるときから私はそう思っている)だからかもしれない。
モーツァルトの音楽がじゃあ人生・生命と関係なく、荒唐無稽なものかというと、そうではなくて、なんというか、私個人の人生の喜び哀しみなどは引き受けてはくれないというか、あれやこれやのそういう事を語るのではなくて、ただ音楽であると言うか、それでいて音楽自体も裏切っている(裏切っていないのはハイドン)というか、つまり、音楽の形をした命そのものの姿というか、そんな感じである。そんなふうなことを小林秀雄も言っているのかなあと思った。
この本を最初に読んだときには思いもよらなかったことだが、私は今チェロを弾くようになって、モーツァルトのハイドンセットと言われる6つの弦楽四重奏曲を、聴くばかりでなく音楽のお友達と一緒に演奏してそのモーツァルトの魅力を楽しむということができるようになった。
上手下手でなく、実際にその曲を譜面を読んで弾いてみる、アンサンブルしてみると、完全にではないにしても、その都度気が付かなかったその曲の魅力がまた見つかる。CDなんかよりずっとテンポもゆっくりだしガタピシしていて、いつも電車ですっと見る風景を歩きで見るようなそんな感じになる。電車では気が付かなかった建物のあれこれが気になったり、当然電車では見えていたはずの街並みがどういうものなのか全然わからなくなったりもする。
そんな経験をした中で、K.465の不協和音の緩徐楽章は確かに小林秀雄が書いているようなそういうものだなあと、その表現、言葉遣いに酔わされることなく、飲み込まれることなく、自分自身の経験に照らし合わせて、共感できた。
音楽に対する漠然とした憧れのみで、どちらかというと音そのものよりも、言葉から始まった私の音楽経験も、少しは自分の考えと理解で、その作品を見ることができるようになったかなあと、そのように思った。
少し長くなりますが、「モオツァルト」の中で、その弦楽四重奏曲 K.465に触れて書かれた、特に今回私の気持ちが強く動いた部分を下に引用しておきたいと思います。
《主題が直接に予覚させる自(おのずか)らな音の発展の他、一切の音を無用な附加物と断じて誤らぬ事、而(しか)も、主題の生れたばかりの不安定な水々しい命が、和声の組織の中で転調しつつ、その固有な時間、固有の持続を保存して行く事。これにはどれほどの意志の緊張を必要としたか。併(しか)し、そう考える前に、そういう僕等の考え方について反省してみるほうがよくはないか。言い度い事しか言わぬ為に、意志の緊張を必要とするとは、どういう事なのか。僕等が落ち込んだ奇妙な地獄ではあるまいか。要するに何が本当に言いたい事なのか。僕等にはもうよく判らなくなって来ているのではあるまいか。例えば、僕は、ハ調クワルテット(K.465)の第2楽章を聞いていて、モオツァルトの持っていた表現せんとする意志の驚くべき純粋さが現れて来る様を、一種の困惑を覚えながら眺めるのである。若し、これが真実な人間のカンタアビレなら、もうこの先き何処に行く処があろうか。例えばチャイコフスキイのカンタアビレまで堕落する必要が何処にあったのだろう。明瞭な意志と敬虔な愛情のユニッソン、極度の注意力が、果てしない優しさに溶けて流れる。この手法の簡潔さの限度に現れる表情の豊かさを辿る為には、耳を持っているだけでは足りぬ。これは殆ど祈りであるが、もし明らかな良心を持って、千万無量の想いを託するとするなら、恐らくこんな音楽しかあるまい、僕はそんなことを想う。》
たぶんまだ圧倒的支配下にあったときに、小林秀雄が夢に出てきたことがあった。目が覚めた時、ああ聞いてみたいことがあったのに質問し忘れたと残念に思った。
その質問自体、しっかり覚えていないのだけど、「美を言葉にすることはできるのでしょうか?」みたいなことだったと思います。
”美を前にしては沈黙しかない”みたいに言いながら、それでもしゃべり続けているのがよくわからなかったというか、私としてはこれからこの件についてどうしていいのかわからないと思っていたからかもしれない。
実際、大学で文学を学んで卒業に至っても、文学を研究するというのがよくわからなかった。文学作品それ自体はただ存在するだけだから、それに対して何をするべきなのかわからないというか。
見えないけど在るもの、うまく言葉などで表現できないけど在るもの、それはやっぱり存在するわけで、「美」と呼んだりするけど、それについてさまざまな手法を使って、人がお互いにそれを確認しあいたいという強い気持ちによって起こる営みが、芸術であり、批評もその一つなのだと思う。
小林秀雄の修辞法はちょっと振り回される感じがあって、乗り物酔いのようにげんなりとさせられる部分もあるけれど、それでもやっぱり他の人には無いような、ずっと覚えておきたいと思いたくなるような凛とした文章があると、その気分の悪さも吹っ飛ぶ。
別に意地悪でそういう表現をしているのではなくて、そのようなやり方でしかとらえることのできないものをとらえるための手法なのだと思う。
今回、再読する機会を持って、それこそ「現在のもの」として読むことができ、また自分自身が考えてきたこと、してきたことと照らし合わせていろいろ思うこともでき、いい時間だったと思います。
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