「愛を読むひと」&「朗読者」

アマゾンプライムヴィデオで「愛を読むひと」(スティーブン・ダルドリー監督)を観て感銘を受けて、その後すぐに「朗読者」(その原作。ベルンハルト・シュリンク著)を借りた。映画を観たのはずいぶん前で、本を読み始めたのもずいぶん前だけど、昨日、本を読み終わった。時間がかかった理由は寝る前に読んでいたので、まず本を手にすることが少なく、そしていつも読み始めてもすぐ寝てしまったから。つまらなかったからではない。原語はドイツ語だけど翻訳もとてもよい感じで、映画と同様に原作もとても感慨深いものだった。 



映画でのハンナの印象が、小説の中でも心地よくキープされていた。順番を考えると、つまり、小説のハンナは映画で上手に実現されていたと言うべきだろう。 

映画を観ていたので、いわば種明かしとなるような事柄はすでにわかっていたにもかかわらず、映画のおさらいという意味ではなく、今度は文学として楽しめてそれが良かった。 ホロコーストの問題、その後のドイツ人の、そして若い世代が受け継いだ罪の意識の問題、年上の女性と若い男の子の恋愛、そして文盲、法律、哲学、そう言ったことが織り交ぜられ、当然、小説では言葉でより巧みに語られ、そのディテールでいろいろな考えが広がる。 

映画のほうが感覚的なように思うけれど、小説のほうが感覚的な想像がより豊かになるものもあって、それは例えば匂い。光、音は映画にあるけれど、似たような感覚の”匂い”に関して映画は直接的に表現できない。小説の中で語られるハンナの匂いについては映画ではごく間接的な表現になってしまうのだなどと思った。また逆に映画で直接的に示されているものが小説では言葉の説明によって想像するものだったりする。まあそうやって考えていくと、そんなこともどうでもよくて、映像や言葉を使って、具体的にこれですと言えないけれど強く共感を呼ぶものが奥にしっかり描かれていることが、映画や小説の醍醐味であるということにたどり着いたりもする。 

私は文盲の人の感覚はよくわからないけど、ハンナが異界の人のような感じなのは、もともとの性格もあるかもしれないけれど、文字が読めないことで話し言葉は同じでも異人のような環境にあるのではないかとは想像できた。私も少し外国に暮らしていた時に少しはその土地の言葉を理解して、会話をしたり、読み書きはできたのだけど、でも日本語とは圧倒的な差があり、自分に対して話されていることを100%理解しているわけではないし、自然に会話が耳に入ってきたり、気が付かずに読んでいるということがないので、けっこう周りの雰囲気に敏感になっていた。危険が記されていても気が付かないことがあるかもしれないし、アナウンスが理解できないかもしれないので、人々の表情とか声の調子とか何かでだいたいの安全性を確認しているのだ。くだらない広告の言葉が自分の中に入ってくることもないので、ある意味雑音のない静かな環境でもあった。私のような考え過ぎの傾向にある人間も、言って見れば動物的な感覚になる。ハンナが直観的な力強さというか、いきなりさを持っているのはそんな感覚のせいなのかなあなどとも思った。 

一方ミヒャエルは、読む人であり、書く人であり、よく考える人であり、きちんと理解しようとする人であり、だからこそ、そんなハンナに強く魅かれたということかもしれない。 

この物語は謎解きにはなっていない。なので、彼女が死んだのは○○だったからだろうなどという議論をするのは何だかおかしい気がする。そうではなく、この小説の最後に書かれていたのだけど、物語を書いたいきさつというのかそこらへんがこの小説の一番美しいところであるように私は思った。 

ハンナは書き手のミヒャエルにとっては最後まで謎であり続ける。そして、若いころからその美しき謎の虜になってしまった彼はたぶん少なくとも愛とか家庭に関しては幸福な帰結を得ることができなかった人生かもしれない。まず彼女の人生の重要な場面に居合わせたにも関わらず、彼は自分が彼女にとってどういう関わりをもったのかも確かではない。でも彼にとって彼女は非常に大きなウェイトを持つ存在である。それから自由になりたいという気持ちで書き始めたというのは、何かわかるような気がした。一歩下がってみると、人は人にどう影響を与えたかなんて本当はわからない。でもそのことに心が囚われてしまうことは多いし、いろいろな意味で簡単に忘れられないことも多い。恋愛だけでなく、この話の裁判のテーマとなっているような過去の出来事に対する罪について、そして、大切な人の死に対してもそうだろう。 

小説のあとがきに、この小説は2度読むべきだと書いてあった。映画を観て、小説でディテールを読んで、同感だった。もう一度読んでもいいし、またもう一度、映画も観てみたくなった。   

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