この美しい表紙の本を初めて手にしたのは、例の隣の駅の近くの小さな本屋さんでした。「売れてほしい本のコーナー」(以前に書きましたが、この本屋さんではミシェル・フーコーの著作など一般的には到底売れそうにない本がこのコーナーに並んでいます)のさらに、本の表紙をこちら向きに縦における木製のラックがあって、そこにありました。
題名に何となく覚えがあった(それはこのノスタルジックな白黒写真のせいで起こった私の勘違いなのか、それとも新刊なのでどこかの書評で知っていたのか不明)気もして、みすず書房の装丁はすっきりしていて好きだけど、これはその中でも美しく感じられ、手に取ったのです。
著者のディディエ・エリボンという人は全く知りませんでしたが、フーコーなどのフランス思想家の周辺にいる人のようで、少しつまみ読みをして、でも3800円なので棚に戻して、でもこの本のことが時間が経っても気になって、(すみません、)図書館で借りて読みました。
どう考えても社会派ではない私が何でこの本を興味深く読み進んだのだろうかと読み終わった今も考えています。
貧しい労働者階級で育ち、ゲイである著者が、哲学、思想を勉強して、ジャーナリストを経て、大学教授になる、いわば自伝なのだけど、「あれをしてこれをしてこうなりました」というサクセスストーリーで語られる、勢いとか明るさとかくやしさとか勇気とか転機とか告白とか、そういうものはなく、あくまでも社会的な課題についての言説(この言説って言葉を久しぶりにこの本でいっぱい見ました。たぶんフランス語のdiscoursの訳、「~について語ったこと」みたいな感じでしょうか。)で、それが静かで深く心地よかったのだと思います。そして、社会階級にしろ、ゲイの問題にしろ、自分にとっては身近ではないけれどもでも、同類の話はあり、それがいろいろ革命、改革、反省、改善があったとしても、構造的にいつも同じ課題が存在するしくみがあるとか、そういう話に共感していたのかなあと思います。
ちょっと関係ないようではありますが、この本を読み始めたときに、アマゾンで、”リトル・ファイアー~彼女たちの秘密 - Little Fires Everywhere"というTV番組を見終わったところで、似たような話のようにも感じました。
人は自分の環境がすべてと思うというか、一般的に恵まれた環境にある人はそれがデフォルトと思っていて、その枠の中でしか考えていない。まあ、恵まれているとまで言わなくてもそれが障害になっていない限りということかな。世の中すべての人はみな自分の環境と同じと考えがちというか、その枠組みの中で考えてしまう。
学生のころ、友達と「なかなか自分の枠組みを超えて考えることは難しい」というような話をしたときに、その友達が「枠があるってことがわかってるだけでも、いいんじゃない?」と言ったことを思い出した。そう、「枠がある」ってこと自体にも気が付かない人(もしくは場合)もあって、それが手に負えない人だったり事態だったりすることは多い。
もう少し書くと、この話と同時に思い出すのは、別の友達に「《これが真実》というものはあると思う。」と明るく言い切られて、それ以上の会話が展開できなくなったことだ。大学に入るまでは出会わなかったタイプの友達だった。一言で言えば、頭はいいのに疑うことを知らないというか、そんな感じ。私にとってはその頃それは大きな衝撃だった。人にはそれぞれ、けっこう違った世界観があるのだと知った。
話をもとに戻すと、解決することを考える前に、まずその枠の存在、構造やしくみの実態が把握できているかどうかということ。この書を読んでいるとその枠とか、構造の話がされていて、それが興味深いのだ。
何となく感じていたが、フランスではたぶん日本よりも根深く社会の中で階級差がある。フランスでは大学教授になるには大学に行ってさらに勉強すればいいのではなく、別のルートがあり、エリボンはそのルートの存在を実際に大学に行ってその先を勉強するまで知らなかった。
エリボンは、父の死に際して、友人が当然のように親の死の後には遺産相続があると思っていることを書いているが、そういう話というのはここ日本でもあることで、目の前にいる友人も自分と同じだと思って話をすることだ。それに似たことを言われた記憶は私にもいくつかあるし、また、自分も知らないうちにそういう無神経なコメントをしているかもしれないとも思う。
正義のために何かをするという「正義」自体が、ある枠組みの中で定義されて、満足していることもあると思う。
事実は、きちんと見つめたときに、そんなに整然とはしていないことがほとんどだろう。
『政治的には労働者の側に位置していたが、彼らの世界にとどまり続けるのは嫌だった。「民衆」の側にたつことはもし自分の家族が民衆ではなかったとしたら、内面の苦痛と精神的危機感をそれほど引き起こしはしなかっただろう。家族と言ったが、私自身が過去も、(多少変化があったとしても)現在も結局は民衆なのだから。』
よく考えてみたら、労働者運動をしている人たちはインテリが多い。そういうインテリやブルジョアが労働者運動をするそのエモーションは、自分が労働者の出身ではないことで維持されていたりするのかもしれないとも感じた。
労働者階級の右翼化、差別されている労働者たちが、外国人労働者を対象として差別する側に回るという問題についても語られている。
エリボンの母の右翼への投票に対するコメントも別の面でリアルだ。「世の中が良くならないから、一度しかってやろうと思ったのさ」
枠はなかなか無くなるものではない。
そして、ある一つの枠組みの中に留まらずに、行動したり、思考したりしようと決意したときには、異なる世界では、「隠す」ことや「偽りの同調」は必要なのかもしれない。例えば、自分の出自について、そしてゲイであることについて。
でもその一歩踏み出て矛盾に満ちたところで、自分に本当にフィットする世界(それが二重に生きることであっても)が築けるのだろう。
自分の感情・嗜好を隠すこと、もしくは並行して2つの世界を生きることは、単にそれを理解しない(あるいは拒絶する)人ともやっていく術なのであって、決してそれらをなかったものにするということではない。
労働者階級の家族・環境が嫌だった自分、学問を嗜好する自分、ゲイである自分、それでも家族を思う気持ち、それらを肯定した形で、自分自身の生き方やその生きる環境を再構成して、やはりなりたい自分になる物語。この著書に、著者エリボンの自伝の物語が内在しているとすれば、そういうことだろう。
『... サルトルのジュネ論の中の次の言葉は、私にとって決定的だった。「重要なのは、われわれが人びとにによってどのように作り上げられているかではなく、人々によって作り上げられたわれわれから出発して、われわれが自分自身をどのような存在に作り上げるかだ」。この言葉は、すぐに私の生き方の原則になった。...』
すでに原書の出版から10年経ち、各国でベストセラーになっているこの本の翻訳を日本で出版する努力をした三島憲一という人が、最後に解説を書いているが、これがまたよい解説で、書かれている内容の理解のよい手助けとなった。
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