平野啓一郎「空白を満たしなさい」

「ある男」を読んで、もっとこの人の作品が読みたくて、これを手にしました。 

 文体の心地よさ、作品の全体の構成など、作品としての仕上がり具合はやっぱり「ある男」は絶品で、こちらは時折、私が思うに、あらずもがなの一文があったり、もう少し整理されていてもいいのかなと感じるところもあるけれども、「ある男」のほうは本当にあっぱれと言うほど無駄がなくテンポや濃さや空き具合が良かったので、こちらが悪いと言うほどでもなく、また10年弱でここまで私が言うのも変だけど成長する作家というのも魅力的だなと思いました。
こちらも、やはり作品全体は謎解きのようなところがある(小説ってそういうものでしたっけ?)けど、その解答自体はまあどうでもよくて、語られていることは「死」についてなのだと思う。そして生きているときの個の在り方(分人という言葉が使われている)。 そういうところが気に入って読み進みました。 

私自身は子供もなく我が家は滅亡が確実になっている中で、最近ひとりでいろいろ考えていることについて、語ってくれているようなところが読んでいて興味深かった。 

 少し長いし、ここだけ読んでいただいても何のことだかわからないかもしれないけど、この作品の後ろのほうで出てきて、私の心に留まった部分を2か所、自分の覚書きとして抜粋しておきたいと思います。

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徹生は、木下と進めていた例のサーヴィスの名前を考えていた時、saveという英単語に「保存する」という意味があったことを思い出した。子供の頃、途中まで進んだゲームのデータを、そう言えば、「セーブする」と言っていた。それが、頭の中で繰り返される「Save me! Save me!...」という歌詞に潜りこんだ。「僕を助けてほしい」ではなく、「僕を保存してほしい。」と。無になりたくない。誰でもいいから、このままの状態で、この世界に保存してほしい。・・・・・・
自分の存在のすべてが、死の瞬間に消滅するわけではない。そう考えてきたはずだった。死は、無へのプロセスである。木下と二人で考えた五つのもの-----<記憶>、<記録>、<遺品>、<遺伝子>、<影響>。それらは、少なくとも当面は残る。しかし、何かを感じ、考えることは出来なくなる。その絶対に手の届かない一瞬に向けて、想像力が、息の詰まるような漸近線を描き続けている。
消滅の瞬間。---- 生の終りであり、且つ、死の始まり。自分が自分でなくなる境界。在ることと、無いこととの繋ぎ目。・・・・・・

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もちろん、璃久には俺のことを覚えていてほしい。こんなに愛してるんだから! けど、死んだ人間は、生きてる人間を圧迫すべきじゃないんだ。人間は、限りある命で、出来るだけ自由に生きるべきだ。だったら、死者は進んで無になるべきじゃないだろうか? 完全な消滅までの時間を、徒(いたずら)に、長引かせてはいけない。それこそが、生き続ける人間への最後の愛じゃないだろうか?・・・・・・ 

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 大学の夏休みだったかに、田舎の祖母の家に長い間行っていたときがあって、その頃から私はあまり本を読む習慣がなかったのですが、暇に任せて、本棚にあった叔母が購入したと思われる日本現代文学全集みたいな全集の中に、加賀乙彦の「フランドルの冬」があって、それを読みました。
もう何十年も経っているし、内容はほとんど覚えていないけれど、その中の登場人物が「自分は死んだら他人に悲しまれるのではなくて喜ばれるような死を迎えたい」と言っていたように記憶していて(違うかもしれないけど)、それが妙に今も私の心に残っているのだけど、この2番目の引用した部分は、もちろん全く意味合いが同じなわけではないけれど、これを読んだ時にまたこの「フランドルの冬」のこの部分のことを思い出しました。

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