桜とゴッホの「花咲くアーモンドの木の枝」



朝、少し目が早く覚めたので障子を開けてその向こうの咲き始めた桜を見上げながらお布団にいた。こんなことができるのはとても贅沢なこと。

実は、今年も、桜を見ていて美しいと愛でる気持ちだけではなく、桜に刻印されてしまったしんどい気持ちもまた少し甦ってくるのを感じていた。そうやってあまり好ましくない感情が植え込まれてしまうなんていうことも人生にはあるのだとそう思った。私のものは時間が経ってみればもうどうでもよいようなことなのでそのうち消えていくだろう。その程度のものだ。でもそんな程度ではない過去の記憶や感情が桜のたびに再現される人も少なくないことをも思った。

桜が美しいときにそんなネガティブな感情について語ったりすることは、常に前向きであろうとする中ではその空気を濁すものでしかないかもしれないけれど、明るいものにだけ目を向けようとすることもまた一種の病気であるとも言えるわけで、前向きであろうとなかろうと、存在するものに丁寧に正直に対峙し、それを味わい尽くす誠実さと体力を持つ人でもありたいと思う。

今ぐらいのまだ花の向こうに青空がいっぱい見える咲初めのときの桜を見上げると、ゴッホの「花咲くアーモンドの木の枝(Almond Blossoms)」という絵のことを思う。ゴッホの他の絵にも見られる独特の明るい水色と花の白の色彩の対比が印象的なあの絵だ。私はいつこの絵を最初に見て、いつそれがゴッホの絵だと知ったかはきちんと思い出せないのだけれど、初めてチェロを持って外国に行った先のドイツの小さな町のホテル(ホテルというか民宿というか、居酒屋さんの上に部屋があるようなところだった)の部屋にこの絵が掛かっていたと記憶している。(もちろん、本物じゃないです。)「桜の絵がある。」(もちろん、私の見間違いです。)と不思議に思ったのだ。この絵でゴッホの浮世絵の影響が語られたりするようだが、もっと言うと「あらこれは日本の絵かしら」と思った気もする。泊まった部屋の間取りも何もあまり覚えていないけど、この絵のことはなぜか覚えている。窓からはワインのブドウ畑の丘の上に古い教会が見えた。宿のおばさんはドイツ語しか話さなくて、NHKラジオドイツ語講座で少し聴いただけのドイツ語では「イッヒ」と切り出したものの後が続かず、指で壁に時計の針の絵を描いたりした。朝食の後、出かけるときにおばさんが追いかけてきて、出し忘れたと温かいゆで卵を渡された。そうやって、そこでのことなども思い出す。

今朝、布団の中でそんなことをいろいろ想い、そうだ、このゴッホの絵と私の今眼の前にある桜を写真に取って組み合わせてみたいと思って、やってみた。

このゴッホの絵について少し調べてみたら、ゴッホの弟のテオに子どもができたことがわかったときにお祝いに描いた絵で、寝室にかけてほしいと言ったそうで、私がたぶん初めてこの絵を見たのも寝室で、そしてこうして今日桜を見て思い出したのも布団の中で、何だか不思議だ。
ゴッホは、横たわって見上げる空と花っていう設定をして描いたのかなあなどと思った。

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