アンダー、サンダー、テンダー (チョン・セラン著)

韓国の文学は今までたぶん読んだことがなかった。

この「アンダー、サンダー、テンダー」の本の少し前にキム・エランの「走れ、オヤジ殿」という短編集を読んで、そのスピード感というか、潔さというか、そんな感じがよいなと思った。

その後、この「アンダー、サンダー、テンダー」を読んだ。こちらもやはりすっきりとした魅力的な文体だ。この2つの若い作家の小説を読んで、共通して私が受けた印象はそういった、勢いのある、突き抜けた、エネルギーのある作品。そんな感じだ。あ、エネルギーがあるというのはあつくるしいという意味合いは含みません。

そう翻訳者がすごく上手だと思う。最近、この間の「ボージャングルを待ちながら」もそうだけど、英語以外の言語の翻訳もすごく進化していると思った。翻訳だということを感じずに読むことができる。だからこの文体が好きだと言っても、私はこの翻訳者、吉川凪の文体が好きなのか、チョン・セランの文体が好きなのかは、自分では判断できない。

私は実は本は読むよりも借りるほうが好きなのかもしれない。図書館でいっぱい本を借りてきて、ほとんど、読まない。読むのは好きではないとも言える。
読まないで、期限が来るのだけど、だいたい私が借りるような本は”保存庫”にある本などが多いので、次の予約は入らないので、それをまた借りてずっと借りている。読まないのなら返せばいいと思うのだけど、期限が来ると読みたい気がしてくる。それでまた借りる。でもほとんど読まない。そんな繰り返しの中で、この本は次の人が並んで返さなくてはならなくなった。それでちょっと焦って読みかけたけど、もちろんほんの最初だけ読んで返してしまった。
そういう本は少なくないのだけど、この「アンダー、サンダー、テンダー」はその後なんだかすごく気になったのだ。それでもう一回借りようと思って、図書館のサイトで検索したら、なぜか本が無くなっていた。そんなことがあると余計に恋心が募ってしまう。
忽然と消えたのだが、また理由もなく現れた。それでもう一回借りて読んだのだ。

電車の中や病院の待合室で読んで楽しんだ。何がよかったのかなあと思うけど、すぐに「これです」というものが出てこない。それはこの本が忽然と消えていた時にどうして気になるのかがわからなかったのと同じだ。

読み始めて、自分の経験と比較した場合、ずいぶん違っていた。私の高校時代は、何だかすごく忙しかった(勉強にではなくて部活動とか、学校祭とかそういうことで)。だから、ファッションにこだわったり、ブラブラしたり、友達とだらだら話したり、そういうことがほとんどなかった。まあ組織の中にいたという感じが強いかもしれない。
それから、団地だったので、みんなどこかに引っ越して行って、幼馴染が大きくなってから集まるということもなかった。あまり同窓会とかも行かなかったからかもしれない。高校はかなり広範囲の地域から集まっていたので、家に帰ってから会うことはほとんどなかった。
だから自分の体験と同じという共感はない。それでも、主人公が言っていることやしていることが「よくわかる」という共感があった。

出てくる映画、音楽、美術関係の作家などの固有名詞や、アイテム(MDとかの機器やYouTubeやそういったこと)も少し世代は違うのだけど、親近感がある。韓国の文化については、韓流ドラマを少しみたくらいの知識だけど、やはり欧米に比べると、景色とか、家族の表情とか、そういったことが目に浮かぶ感じがして、近しさを感じた。それでいて、日本の小説ほどべったりではない、ほどよい距離感が、異世界に行くことを助けてくれた。

いろいろな考えや好みがあると思うけど、私は小説を読んでいても、映画など見ていても、やっぱり日常から遠くに飛ばしてもらうのが、好きだ。

実は今、川上弘美という人の「森へ行きましょう」というのも借りてきてあるのを、自分と同じ世代だから面白いかもと思って読み始めて、するすると読んでしまうのだけど、「これ読んでいてもなー」っていう気持ちが濃くなってくる。いや、まだ読み始めたばかりで、この小説の構成もよくわかっていないのにこんなこと書いてはいけないのだろうけど、どうでもよい連続ドラマを何となく見てしまっている感じがしてきた。自分があまりこういう男女のどうのこうのに興味がないからか、それしかないような気がしてきて、浅田彰が出てきても、その時代を出すために少し出てるだけという感じだ。

それで、「アンダー、サンダー、テンダー」はこんなじゃなくって、もう少しヴィヴィッドな感じがあったなあと思い返して、またちょっと手にとってみているのだ。主人公がとったヴィデオの記述が挿入されていて、いわば時間軸が2重になっている。最初に読んだときはそのことがはっきりわかっていなかったので、2度目に読むとまた面白い。

この小説でも悲劇は起こるのだけど、その悲劇を語ることがこの小説のキイにはなっていないような気がする。読んでいながら、その悲劇が記述される前に、たぶんそんなようなことが起こったのだろうと読者は想像できてしまうので、内容を知った時のサプライズはない。そんなストーリーの扱いも興味深い。

そういう属性はあるとして、でも何がこの作品の中心となる魅力なのだろうか。

そう考えた時に思うのは、故郷とか、思い出とか、家族とか、友達とか、そういうものに関する感覚と言えるかもしれない。
「感情」ではなく、「感覚」と言うとより私としては納得できる。

北朝鮮との国境に近い、少し見捨てられているような町。豊かではない家族、もしくはお金はありそうでもバラバラな家族。環境はけっこうしんどくて、そこでの青春はそれほど明るい思い出でもないけれど、否定するものでもないというか、そういうクールなポジションがキープされているような、そんな感じがよかった。

荒涼としたところでのたくましさみたいなのがある。でもそれはそんなに歯を食いしばってがんばっているとか、涙を誘うものというのではない。普通という感じ。その乾いた感触が好きだったのかもしれない。

誰の青春もそんなものなのではないだろうか。少なくとも私はそうだったかもしれない。つまり、必死なものでも熱烈なものでもない。
子供の頃、なぜか「青春って何?」とよく親に聞いた。たぶん、私が理解できる答えが得られなかったから何度も聞いたのだと思う。それでその後、「もうちょっと経ったら青春になるのかなー?」なんて思っていたら、気が付いたときはどうやら終わっていた。(なんかそんな歌があったような気もする)

***
「行っちゃうの? あたしを置いて?」
 坡州の暗い道で、私が必死な顔で言うと、ソンイが私の手を握った。
「あたしがどうしてテキスタイルか何かの道に進まないで、客室乗務員になったか知ってる?」
「知らない。脚がきれいだから?」
 するとソンイが例の、耳をそばだてるような笑顔を見せた。そしてその次に言った言葉を、私は忘れることができない。
「ここがいやだから」
***

私もなぜかこの場面を忘れることができない。

そう、この小説全体に、”笑顔”と”「ここがいや」”の抱き合わせ、そういう感触があるのだ。

小さな会話のやりとりや情景描写、いろいろなアイテムの扱い方に、映画をみるようなディテールの心地よさが感じられて、そのひとつひとつの積み重なりが、静かに「この環境でやっていくたくましさ」というか、「笑顔と『ここがいや』の抱き合わせ」につながっていて、それがこの作品の魅力なのかもしれない。未解決のままでいる強さがあるとも言える。

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