映画を観た後ってこうだっただろうか。
久しぶりなのでどうだったか思い出せないけど、とにかくこの映画を観て1週間くらい経った今、やっと呪縛が解けてきた。
アマゾンビデオとか、大きな画面のテレビとかできて、映画はずいぶん身近になったはずだけど、映画館で見る映画のこのような放心状態というか、体の中まで入ってくる感覚というか、そういう体験こそが映画を観るというのであれば、ずいぶん長い間私は映画を観ていなかったことになる。
ずっと彼らのことを思っていた。ワレルカ、そしてガリーヤのこと。 それはちょうどとてもインパクトのある人と会った後のようなとてもリアルな感覚だ。映画を観た当日は家に帰ってもついさきほどまで一緒にいたのだという感じに包まれ、そしてその後数日、ずっと彼らのこと、彼らの町、この映画を作った監督のことを考えていた。明るい幸福感ではなく、忘れてしまいたい苦いものでもなく、重くしんどいけれど無視できない何かがあった。
実はその2週間ほど前、渋谷の東急本店に行く通りのお店に行こうとして、間違って道玄坂のほうに行ってしまった。たまに私にはこの混乱が生じる。それがその日も起きてしまって、そうすると次に何をすることになるかというと、最短距離での修正をするために東急の裏というか道玄坂の裏というか(別に裏とか表はないはずだけど)のラブホテル街というか風俗街というかを通ることになる。すんなり通過できず、なぜかその日はちょっと迷った。金木犀の香りがしてきて、こんなところにもとその金木犀の写真を撮ったりして歩いて、そろそろ表通りにでてよさそうなのにまだほんのりいかがわしさが漂う店が並ぶ道でちょっと方向感覚を失いかけたその時に、忽然とワレルカが現れたのだ。
カネフスキー監督の「動くな、死ね、甦れ!」の垂れ幕(看板)が、本当に”忽然”という言葉がふさわしい形で目の前に現れた。なぜこんなところにいるの?と驚いて、やっとこのいかがわしい通りにユーロスペース(映画館)があるのを思い出した。
私にとっては思わぬ再会だった。まずこの映画がもう映画館で上映されることはないと思っていた。この映画に再会するために私は道を間違えたのだろうか?こんなことが起こるものか。不思議な力の存在を思った。懐かしい友との突然の再会、はるか遠くからの時間のつながりを思って、何ということだと涙が出てきた。お誕生日を前にして本当にこれは天からの贈り物のようだった。楽器を担いで歩き回ってへとへとになっているはずだけど奇妙な明るいエネルギーに満たされた。
その時は時間が中途半端だったので見ることはできずまた出直すことにした。受付のお姉さんはその時の私にはとても映画に無関心な人に見えた。
この映画はたぶん過去に2回観ていた。最初に観たのはブリュッセルのグランプラスの近くのギャラリー(アーケード)にある映画館。このギャラリーは本当に美しくて、そしてこの映画館も小さいけれどスクリーンの両脇に洋風の(もちろんヨーロッパなので)柱があるような趣のある映画館だった。私が外国で初めて入った映画館かもしれない。入り口のポスターを見て入ったのだと思う。どんな映画も知らなかった。きっとそのときにもワレルカがそのポスターにはいたと思う。その視線と光と影に引き寄せられたのだと思う。
今思えばそのときも偶然の出会いだった。監督の名前も知らなかった。
中ではすでに映画は始まっていて、白黒映画で、何だか煙が舞っている狭苦しい階段のようなところのシーンだった。最初の炭鉱のところだったのか、今はもうわからない。
ベルギーで映画を観る場合、フランス語かフラマン語の字幕がつく。両方の場合もあったかどうかよく覚えていない。これはロシア映画なので、つまりしゃべっているのはロシア語でフランス語の字幕がついていたかもしれないけど、まあほとんどわからない。だからどういう話かはほとんどわからなかったけど、いい映画だということはわかった。
日本に帰ってから、上映されているのを知って、今度は日本語の字幕がついたので見たけれどやはり印象は変わらなかった。いい映画は映像が語っている部分が多いので、別に言葉はわからなくてもいいのだと思う。 私にとって「いい映画」とは何かという定義は一言で言いにくいけど、その映画の空気感があるものっていうか。
たぶん3回目の今回、別のヴァージョンかと思うほど、すっかり忘れているところもあったけど、やはり自分がこの映画から受けるものは変わらない。
ワレルカ(少年)とガリーヤ(少女)の姿、動き、顔かたち、表情を、眺めているだけで十分なのだ。最初は冬でみんな薄汚れた綿入れのようなものを着ている。後のほうでは夏になってその若葉の様な美しい体の線もわかるようになる。2人のじゃれあい、視線のやりとりがいい。誰にでもある(少なくとも私にはあった)子供の頃のやりとり。
ただ、環境はたまらなくしんどい。極東と呼ばれるシベリアの町。とても寒そうで、道はぬかるみ、家の中も今の私たちの生活からはほど遠い室内と言い難いような部屋。
そして、「そのような過酷な環境の中でも人々のこころは暖かくお互いを愛しみあいながら暮らしていました」ではない。盗み、暴力、狂気、軽蔑、理不尽な権力が蔓延して喧噪が絶えない。まさに「動くな、死ね」というような世界だ。映画の中で人々はよく「監獄に入れられる」と恐れて言っているが、日本で穏やかに育った私にはすでにその粗野な人間関係が監獄の様に見える。気候や貧しさより、そのほうがしんどいかもしれない。
映像と音が分離しているようにさえ感じられるほど、人々は大きな声で歌を歌う。一緒にではない。それぞれがひとりで勝手に大きな声で歌うのだ。
この映画が愛おしいところはやはりワレルカとガリーヤの2人。特に私は女の子だったからか、ガリーヤみたいになりたいと思う。そして、彼らのほど大胆でエネルギッシュではなかったかもしれないけれど、私にもいたワレルカのような常に動き回っていた手に負えない男の子との似たような戯れや、そのときの真剣さが蘇る。
このカネフスキー監督がこの映画を作った時と同じ歳になった今、同じ時間の距離感覚を持てたせいか、この映画に対して考えることがより濃いものになったかもしれない。
「甦れ」は、映画によって自分の少年のころの風景を蘇らせたのだと、終演後にロビーで立ち読みした何かの中で、監督自身が語っていた。
「甘く切ない」とか、「苦い」とかそういう思い出とか、ロマンスとかではなく、生きる原点とも言えるような小さいけれど力強いもの、そしてどうしようもなくしんどいものが描かれていて、それが映画を観終わった後もずっと私の中に居座り続けた。
私の中にいつまでも居続ける物言わぬ興奮というか、ほてりというか、それを鎮めるもの、その熱の受け皿を探すようにインターネットでいろいろ見たり読んだりしていた。監督の他の作品のこと、ワレルカ役の彼の今、ガリーヤはどうなったか。
その中で、映画評論家の川口敦子さんが書かれた文章が一番がっちりとこの映画について語っていて、久しぶりに質の高い評論を読んだ気がした。
これです→ http://realsound.jp/movie/2017/10/post-119087.html
とても言ってほしいことを言葉も適確にさすがに上手に表現されていて、もう私が何か書く必要もない(←お前は何者じゃー!!もともと何も書かんでよい。)という気持ちになったけど、やっぱり自分でもこの体験を書きとどめておきたくなって、1週間たった今、こうやって書いてみました。
長々と書いたこれをここまで読んでくださった方がいらしたら心からお礼申し上げます。
10月いっぱいとの話もありましたが、幸いにもまだ渋谷ユーロスペースで上映中のようです。もしご興味持たれた方がいらしたらどうぞご覧になってみてください。
ユーロスペースの後も全国で細々と公開されるようです。
http://www.eurospace.co.jp/works/detail.php?w_id=000207
このthe アートシアターっていう会社(?)は何者なのかわからないけれど、この前にビクトル・エリセ監督の「みつばちのささやき」を公開したらしく、すごくセンスのよい会社だと思う。
私が大切に思う映画は子供が出るのが多いかもしれない。 この上の2つの映画に加え、ヴェンダースの「都会のアリス」、ホウシャオシェンの「冬冬の夏休み」、オルミ監督の「木靴の樹」。。。 これらは何度でも観たい私にとって宝箱のような映画だ。
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